
剥がれ落ちて、朽ちかけた木の皮にも美しさを感じる。
そこには地層あり、草原が広がり、巨大洞窟への穴がある。
そして宇宙に散らばる星々を感じる。
綺麗に咲いた花や、綺麗に育った植物だけではなく、
様々なものから様々なものを感じ取り、
自分でこの宇宙を確かめたいだけなのだ。
ここ数年目まぐるしい変化があり、一年前の自分ですら別人のように感じられる。
2019年に入選してから、本当に色々な種類の仕事の依頼を頂いた。当時は仕事をもらうためにイラストレーターと名乗り、絵本作家と名乗った。こんな仕事をしてみたいなとぼんやりと思っていたものが、誰かに伝えたわけでもないのに全てやって来たのはたまたま運が良かっただけで、本当にありがたいとしか言いようがない。ところが色々な仕事を経験した結果、どうやら自分が進んでいる方向は、イラストレーターでもないし絵本作家でもないようだ。
ある人に、「あなたがやろうとしていることは芸術で、作品を通して自分とは何者なのかを知ろうとしている」と言われた。その人は、出版社の編集者でもないし、ビジネスマンでもないし、絵本作家でもないし、画家でもないし、芸術家でもないし、職人でもない。そんな人に突然教えてもらった。そっちの方向に私は向かっていると。
入選した絵本も、私とは何者なのか、という問いから始まったもので、内側から出てきたものだ。
そもそもアーティストになりたいと思ったことはあるが、デザイナーになりたいと思ったことも、イラストレーターになりたいと思ったことも、絵本作家になりたいと思ったことも実は一度もない。どれも生活のために仕事としてやったものだ。出版社と絵本づくりをしたけれども、違和感だらけで、どうやらそっちの世界のやり方だと私にはしっくり来なかった。
広告の仕事は、動く金額も巻き込む人数も多く、一見とても広いところで考えているように思われるのだけれど、どうやらそうではないらしい。一人で行う芸術の方がもっと広く、深く、遠いところまで行けるのだということを思い出した。
そういった方向に進んでいくと、過去に自分が作品として作ったものが現実に起こるようになってきた。私とは何か、記憶とは何か、死とは何か、ビジョンとは何か、意識とは何か、描くことでそれらが私の中での氷解していった。
お願いされたのもあり、作品制作と並行して一年ほど試しにSNSで投稿してきたけれど、どうやらSNSは向いていない。毎日作品やスケッチを何十枚と描くのは全然苦にならないが、SNSに一つ投稿するだけでも苦痛で仕方ない。その苦痛さの大部分は、どうでもいい人たちとのどうでもいいやり取りが発生するから。本来人生をかけて行う私の探求以外に余計なエネルギーを奪われてしまう。そもそも不特定多数の人と交流なんかしたいと思っていない。そんなことをしていたら作品を作るための不純物が増えるだけで、ただ作品を描いて発表したいだけの私にとってはとも邪魔なものでしかない。
SNSでの発信も何かを「売りたい」「紹介したい」のであれば広告だと思う。直接的に費用は発生していないだけで、それを「ファンを増やすため」と、ていのいい言葉に置き換えてしまえば騙される人もいるかもしれないけれど。ビジネスを嗜んでる人たちにとっては売り上げや、フォロアーが何人いるとか、何万部売れたとか、何個売れたが全てなのだろうが、私からするとそんなものはどうでもいい。依頼を受けないとか、仕事をしないというわけでもないし、お金が必要ないといっているのではない。お金もただの道具でしかない。ただそれだけだ。たくさん売れたから優れた作品なわけではない。「生きているうちに売れないと意味がない」とか「売れないものを作っているのはただの自分を慰める行為だ」と言われることもあるけれど、そんなものはビジネスマンのいうことであって真実ではない。芸術家はただ自分の魂に従えばいい。
私にとっては、売り上げも、販売個数や部数も、称賛も、賞も、いいねも、フォロワーも、すべて私の外側のもので真実ではない。そんなものを集めたいわけではない。身の回りの自然や出来事から私が感じ得たものを、私の感覚で表現したものだけが真実なのだから。外側のものはいらないと言いながら、賞に応募するのは本物ではない。もう私にはフォロワーを増やす必要も、賞に応募する必要もないのだ。
展示をしていた時に言われたことがある。「あんなペラッペラな紙に描いて」と。そんな人に限って、有名な先生に教わり、高価な支持体や画材を使い、受け売りの絵を描いている。誰かがこしらえた作品の作り方も、絵本の作り方も私には必要ない。紙と鉛筆と創造力があればそれでいい。その紙がどんなに安物てペラペラなものであろうと、その鉛筆がどれほど安価であろうと。
真の小説家は誰もが使える言葉で、誰も語れない物語を語る。真の芸術家は誰もが使える道具で、誰も描けない線を描くのだから。
「何歳向けの商品を作ってください」とか「誰々向けの絵本を描いてください」というのは商品であって芸術/アートではない。「この絵本の中で何々を探してみよう」なんてものは芸術/アートではない。同じ映画を見ても、ある人は「船乗りになりたい」と思い、ある人は「音楽家になりたい」と思う。答えはそれぞれの中にある。それぞれの中にある何かが反応するのだから、作品がそれらを変えることはできないし、答えを用意する必要もない。
「こういったものが売れるから作った」のであれば、絵本=芸術になることもないし、現代アート=芸術、になることもない。現代アートなのに芸術ではないのはなんとも不思議だけれど。それらはただ「アート風」なだけだ。私は絵本を作りたいわけではない、描いていったらたまたま繋がって物語になり絵本になるだけだ。結果出来上がるものが一枚の絵だろうが、絵本だろうが、漫画だろうが、インスタレーションだろうがなんだっていいのだ。だから私は絵本作家ではない。
上手な絵を描きたいわけでもない、緻密な絵を描きたいわけでもない、洒落た絵を描きたいわけでもない、可愛い絵を描きたいわけでもない、格好のいい絵を描きたいわけでもない、子供に受ける絵を描きたいわけでもない、売れる絵を描きたいわけでもない。それらが必要なら職人やデザイナーや画家やイラストレーターに頼めばいい。
他人のものではなく、私の感覚で受け取り、私の中で濾過して出力し続けるしかないのだ。もう、その道しかない。
依頼や仕事、クライアントや読者の中に、私にとっての真実はないのだから。
日記の導入としてはとても長く、辛辣になってきたが、今、書きたいことは全部書いておく。残念ながら本心を書く人にはファンはつかない。それでも書く。
本質とはなんだろうと考えた時に思い出すことがある。私もまがいなりにも企業で働いたことがある。今ほどのペースではなかったにしろ、働きながらも作品は細々と作り続けていた。ビジネスの場面でも「この案件の本質はなんだ?」とよく問われた。それで、この仕事の本質はと考えていくと、不思議なことに考えが別のところまで及び、本当に私が感じている質のところまで考えてしまう、私ってなんだろうと。これは自身に設定されたものだからどうしようもできないし逃れられない。社会の中で問われる本質なんてたかが知れている。そこを超えて、本質とは何かを探るととても広いところまで抜け出るということがわかった。
楽しいことをしたいの「楽しい」って何を指すのだろう。「楽しくない仕事を楽しくすることが楽しい」ことだとか、「生みの苦しみの後に楽しいことがある」だとかよく聞くけど、それは本当なのだろうか。
ある人にとっては映画を見たり、芸術に触れたり、スポーツ観戦をしたり、音楽を聴いたり、中にはギャンブルをするのが楽しいと感じる人もいるだろう。ところが、なんとなくそれらは外から与えられたもののように感じてしまう。楽しいにも様々なレイヤーがあって、浅いものも深いものもある。一見笑いが起こることが楽しいことのように感じてしまうけれど、お笑い風なことをすることが楽しいわけでもないようだ。受け取る楽しさは簡単だけど、創造する楽しさは少し難しく時間がかかるようだ。どちらが良い悪いではないが、その人がどちらに向かいたいかなだけだ。
創造するのは簡単ではないし時間がかかる。だからといって苦しいことの後に楽しいがあるわけではない。誰かに与えられたものをやるから苦しいのであって、私が私の世界を創造する工程そのものが楽しいのだ。その時は苦しいよりも、夢中になっている。だから苦しいの後に楽しい、ではなく、楽しいの連続で芸術は生まれる。その中に真実がある。
AIがあれば作曲家も芸術家もいらないと言う人もいる。そもそもAIが描いた絵はなんなのか。それは誰かが描いたデータの集積をもとに描き直した有名な画家たちのコピーでしかない。そこには探求もなければ魂もない。誰々のような絵なだけであって、表面的なものでしかない。皆、誰かが作ったAIという表面的な画像を楽しんでいるだけだ。
AIを作っている人たちがAIに怯える滑稽な世界。AIは世の中を便利にはできるかもしれないが、今はマネーゲームの道具に成り下がっている。AIはお金を奪うかもしれないが、芸術家の魂は奪えないし、私たちがどう感じるかも奪えない。これは産業革命の時代から言われているが、「未来はより便利になって将来は、一日二時間しか働かなくてもよくなる、だから今一生懸命に働け」と。あれから100年以上経っている。私たちは便利にはなった。それでも皆忙しく働いている。
私の兄弟は小説を書いている。「小説はやり尽くされているのにどうして書くの」と言われたことがある。何億冊この世界に小説があったとしても、彼らの内側から物語が出てくるから書くのだ。それと一緒だ。
包丁も便利な道具だ。料理人が使えば美味しく美しい料理が出来上がる一方、殺人の道具にもなる。お金もいろいろなものと交換可能な便利なものだが、支配の道具にもなる。AIも同じことだ。悪用するのはいつだって人間だ。そして人生を諦めるのもいつだって人間だ。
そもそも作品とは、私とは何かを思い出すためにやるのだ。私とはなんだろう、どうしてこういったことに感動するのだろうか、私はどういう存在なのだろうか、どうして美しいと感じるのか、どうして懐かしいと感じるのか、記憶とは何か、それらはどこまで辿れるのか、記憶がなくなるとどうなるのか、命とは何か、死んだらどうなるのか、どうして作品を作りたいのか、その欲求やエネルギーはどこからきているのか、それらを描くことで思い出していくのだ。これは死んでからも続く・・・のかもしれない。
「自分探し。そんなものはないし意味がない。だからお金を稼いだ方がいいし、仕事をして誰かの役に立った方がいい」という人もたくさんいるのも知っている。ある意味では合っている。自分は移ろいゆくもので、探すのは難しいのだから。それでも芸術とはそういうものだ。私とは何か、この世界とは何かを知るためにやるものだ。この世界とは、人間が作ったルールや社会の仕組みのことではない、それにとらわれないもっと本質的で根源的なものだ。そこにはどんな賞を取ろうが触れることはできないし、作品が1億円で売れたところで辿り着けない。絵本が100万部売れたとしても到達はできないし、太陽までの距離やブラックホールの質量が正確に測定できたところでそこには至らない。
これから私の中からどんな作品が出てくるかはわからないけれど、小さな水滴の中や、小石や、朽ちた枝や、小さな手のひらの中にあるものから、膨大な記憶を引きずり出して、誰の真似でもない私の世界を表現をしたいだけなのだ。強度と純度の高い作品を作りたいだけなのだ。それが私の存在理由であるのだから。